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片山 勲 会長

片山 勲 会長

私が社長になって決断、実行したことのなかに、とりわけ大きなことが二つありました。
一つはわたの卸しを止めて、小売店舗の展開をしたこと。もう一つは、平成元年の「健康元年キャンペーン」で行った営業戦略の大転換です。
それまで「福天狗綿」の商標でやっていた卸しの扱いが急速に落ちたので、卸を止めて小売りに専念する決断をしました。代わりに店舗を増やして、売り上げを大きくすることにしたのです。時代の機運としても、モノが沢山売れた時代でしたからね。
昭和47年に千葉のテナントビルに初出店。その後、銚子・木更津・八日市場店と矢継ぎ早に出店し、千葉店の撤退を決めた後は、寝具店として必要な売場の広さを確保するため、基本的にはロードサイドの独立店舗として出店しました。売場面積の拡大が、売上を大きく伸ばしたのです。

昭和60年代になると、入荷すればすぐ売れる時代にかげりが見え、お客様との関係を見直す必要が生じました。眠るための用具であった枕やふとんが、睡眠に大切なモノとして認識が変わってきたのです。
平成元年の「健康元年キャンペーン」をきっかけに、売りっ放しで終わっていたお客様との関係を見直し、健康の視点から寝具を選んで提案し、アフターフォローも行い、いわば“ 眠り”のコンサルティングとして長くお付き合いするカタチに変えたのです。

片山 洋子 取締役販売部長

片山 洋子 取締役販売部長

私はそれまで商売と縁のない世界で育っていましたから、結婚当初はまったく相談相手にはならなかったと思います。会長は一人で進む人でしたよね。陸上をやっていて、一人で決めてやるタイプでしたから。
私は義母と加瀬三郎旭店長の二人から薫陶を受けました。義母は“商いは飽きないで”と常々言い、加瀬さんには、一から商いのことを教えていただいて、まるで父親のような存在でした。会長は小売りはやらず、仕入れや支払いをやって、店売りは自分の担当だったのです。
長男が生まれるまでは義母も旭店で働き、家事と仕事の両方をやるのが当たり前の家でした。次々と店舗を増やしていったことについては、会長は、時代の流れの掴み方が的確だったのじゃないですかね。

平成元年ですか、いまでも鮮明に覚えているのですけど、会長が西川さんから帰ってくるなり、これからは無圧ふとんや羽毛布団など、いまでいう健康キャンペーン商品をしっかりやっていこうと言われました。高付加価値商品をどうやって売るかを考えなくてはいけなくなりました。そこが一番、私の商売の仕方では、変わっていったポイントでした。

その時々、ベストと思われる道を一生懸命選択し、先代から引き継いだものを、次代へとリレーしていく。これは会長が陸上をやっていて、リレーの大切さを体験しているからで、家業の継承はまさにリレーのようなものだ、と語っていたことが印象に残っています。

片山 清 副社長

片山 清 副社長

昔でいう丁稚奉公で、沼津のわたやす商店さんにお世話になり、昭和50年に片山商店に戻りました。
後半の2年インテリア部門にいたので、戻ってからベッドとか絨毯・カーテンなどの仕入を担当して、それまでそういう括りはなかったけど、インテリアをその時点ではじめました。旭店にベッド本体を並べ、メーキングしたものを見てもらうカタチでした。2階約80坪のうち40~50坪近くでベッド及びベッド用品・インテリア小物などを扱ったと思います。あとは銚子にもお店があったので、そちらでも扱うようにしました。ちょうど生活様式が切り替わる時期で、ベッドが動いてきて、婚礼なんかでも和布団から、ベッドを持っていくスタイルに変わりつつあり、10組あれば、2組か3組は金襴緞子からベッド用品に変わり、普段使いでもベッド用のシーツとかよく売れていました。
そのころ和の寝具メーカーが多くて、その中では西川が先行して、ベッドパッドとかベッド用のフリルのついたふとんとかをやっていて、他にメーカーはあんまりなかったですね。ともかくこの地域で見られなかった、いいものを揃えたつもりです。

寝具はサイクルが長い商品です。すぐに売れるものではないので、現在では展示会で“まず寝てもらって、寝心地を覚えておいてもらう”くらいの気持ちで、買うときに思い出してもらえればいい、というスタンスでやっています。

竹ノ内 利彦 専務取締役

竹ノ内 利彦 専務取締役

昭和51年に大学を終えるとき、既に銀行系に就職が決まっていたのですが、会長の「一緒にやらないか」という言葉が大きくて、こちらを選びました。
その頃のわたしんは、旭と千葉と銚子と木更津の4店で、内容はもちろん知りませんでしたが、会長の人柄が頼もしいのと、お店が私の母の実家でしたから、小さい頃から慣れ親しんでいました。
入社するとまず商品のことから覚えてもらおうと商品本部に配属されました。商品の仕分け、配荷、値札付けなど本当に下積みの仕事から始めましたね。商品を理解し、どこから仕入れ、どんなものがあって、どんな形で売上げを作っているかを覚える意味で2年ほどやりました。
それから店売りに回り、最初は寝具部門で先輩から販売のことを一から教わりました。1年間1階の寝具部門を経験した後、2階のインテリア部門へ。いまの副社長の下で何年か教わりながら、その部門を任されるインテリアの課長になり、当時は1階と2階で個別に売上げ目標を立てていたので、2階だけで1億の目標を立て、達成しましてね。それから約15年旭店長をやりました。そのあとは、八日市場店や銚子店の建て直し役に。結局銚子が一番長くなっています。

入社してすぐ、110周年のでかい袋を持ってお客様のところを何百軒と回り、創業祭のセールを暑い中でやった記憶があります。それがいま40年経ち、150周年ということですから感慨深いものです。

片山 友也 常務取締役

片山 友也 常務取締役

東京大井町の橋本ふとんさんと静岡県沼津のわたやす商店さんで修業させて頂き、平成13年に入社して、はじめから営業(店売り)をしました。16年10月、旭店が新築されて、翌17年から店長を務めています。戻ってきた13年以降、主要な研修とか工場見学などは殆ど参加していますね。
小学1年生(昭和55年)頃から、家業の認識はありました。その時はお店の後ろに自宅があって、当時、お店の3階にわたを打っている職人さんがいたので、そちらに遊びにいったりして可愛がってもらったりしました。
ここ3~4年はメンテナンスを中心に、車でいえば車検みたいなもので、こちらからお客様に働きかける方向に変わってきています。例えばわたしんで買っていただいた方には、10年先でもめんどうみるよ、というように。また私どもの寝具に関する知識とお客様の知識にはかなり差がありますので、いまからの課題ですが、ニュースレターなどを使って、お客様に寝具の知識を持っていただこうとしています。

羽毛ふとんと言ってもホント9,800円から100万円まであって、一緒だと思っているお客様には、ぜひその違いを理解していただきたいですね。これからは安売りで大量にものを売る店と専門店化した店の2極化が進みます。実用・消耗品的な位置づけではなくて、ずっと大事に長く使う耐久商品的なものとして考えていただくお客様にしっかり対応していくことがわたしんとして重要だと考えています。

鈴木 俊夫 総務部長

鈴木 俊夫 総務部長

昭和60年に入社しました。もともと経理、事務員ですね。現在は総務、人事など管理部門全般を担当しています。
私の入った頃は、4月5月は外販、外回りが中心で私も運転手として何度かお客様のところに行きました。上得意様のところですけど、飛び込みで行く訪問販売なのですが、それでも結構売れていましたね。いまはお店で応対するといい感触でも、直接家に訪ねると、あまりいい顔はされません。お客様は自分で店に行くのはいいけど来ては欲しくない。必要があれば行くよというスタンスで、そういうのが結構若い世代のお客様には多くなっています。

最近では益々お店での対応が大事になっていて、アフターフォローとかで、個人的な結びつきが強くなっています。そこで人材の確保と教育が大事で、特に店長レベルの教育は部下に影響しますのでね。商品知識・技術などはメーカーの研修等でも学べますが、接客や店舗の運営に関しては独自に教育する必要があります。覚えた知識をどうやって相手に伝えていくかというアウトプットは実践を積まないとどうしても中々身につかない。覚えるのに時間がかかり、女性の場合、戦力になっても10年も経つと退職を迎えてしまう。
ジレンマはありますが、次代を育てるためにも、新入社員教育の場を充実させていきたいと考えています。また今後新規学卒者を採用するためにも、労働条件等の整備を、さらに進めて行かなければと思います。